山を登り、道を走る。気づけば自分が変わってた話

雑記

登山とマラソン。
どちらも「しんどい」「キツそう」って言われる趣味だけど、気づけば私はどっちも好きになっていた。

最初に登山にハマったのは、もう15年くらい前。静かな山道を黙々と歩いて、最後にドーンと広がる絶景。下山後の充実感がクセになって、気づけば毎月のように山に通っていた。

そして、マラソン。
こちらは2年前。なんとなく「健康のために走ってみようかな」って軽い気持ちで始めたら、思いのほか深みにハマった。
最初の5kmすら地獄だったのに、今ではフルマラソンを完走するまでになった。
2024年8月の北海道マラソンでは灼熱地獄にやられ、2025年3月のさいたまマラソンでは雨・風・低温という三重苦。 それでもなぜか、また走りたくなる。

登山とマラソン。何がそんなに自分を惹きつけるのだろう。

似てるようで全然違う、でもどっちも「自分と向き合う時間」

登山もマラソンも、ひとりで長い時間を過ごす。
その時間は、結局「自分と向き合う時間」なんだと思う。

登山では、自分は登れないような山には行かないし、ちゃんと登れるように準備してから出かける。だから山では、むしろ集中している時間がほとんど。
呼吸、足音、風の音、葉のざわめき…そういうものに意識を研ぎ澄ませて、自分の内側とだけ静かに向き合う感覚がある。 

マラソンでは、また別のかたちで自分との対話が始まる。
20kmを過ぎたあたりで訪れるゾーンは、疲れているはずなのに気持ちは軽くて、呼吸と足音のリズムが妙に心地よい。自然と笑顔が出てくる。あの瞬間、「走るっていいな」と素直に思える。

でも30kmを過ぎると一気に世界が変わる。脚が重くなり、痛みがじわじわと広がってくる。ここからが本当の勝負。それでも、しっかり練習ができていれば、「やることはやってきた」という確かな感覚が、苦しい状況でも自分を支えてくれる。

登山は静かな疲労、マラソンは静かな告白

登山を終えた後の私は、ほとんど筋肉痛を感じない。もちろん多少の疲れはあるけれど、それは「よく歩いたな」という満足感のある疲れで、自然に抱かれたまま、いつもの日常に戻ってきたような余韻が残る。

これは、たぶん「無理をしていないから」だと思う。

登山は相手が自然だ。無理をしないことを第一に考える。ペースを落としてでも安全を優先するし、「今日はここまで」と引く判断もする。
安全第一という前提があるからこそ、身体を壊すほど頑張るという発想にはならない。その結果として、登山後の疲労は、自然と折り合いをつけながら歩いた「コントロールされた疲労」になる。

一方、マラソンは環境が整っている分、無理ができてしまう。
舗装された道、定期的な給水所、救護体制もある。沿道の応援やタイム目標、周囲のランナーの存在もあって、「もう少しいけるかも」とついペースを上げてしまう。
その「もう少し」が、後になって大きな疲労として返ってくる。

脚は鉛のように重く、階段が妙に高く感じる。翌朝には体のあちこちが悲鳴を上げ、歩くことすら億劫になる。

どちらの疲れも、取り組み方の違いがそのまま身体に現れているだけだ。 どう向き合っているかの違いが、疲労の質を分けていると感じている。

登山は登る前から、マラソンは走る前から始まっている

登山は、山に足を踏み入れた瞬間に始まるわけではない。
どの山に行くか、どのルートを歩くか、天気はどうか、装備に不備はないか――そうした準備の時点で、すでに登山は始まっている。
山を安全に歩くためには、事前にどれだけ考えておけるかがすべてだ。

マラソンも同じだ。
マラソンは、スタートラインに立った瞬間に始まるわけではない。
筋トレ、ストレッチ、食事や休養。どんなふうに自分の身体と向き合ってきたか――そのすべてが、レース中に現れる。

レース中の自分は、それらを積み重ねてきた「見えない時間」の反映だ。

結果を左右するのは、派手な場面ではなく、日々の過ごし方そのもの。
登山もマラソンも、本番はただの「答え合わせ」なのかもしれない。

生きている実感を確かめるために

登山もマラソンも、「しんどいけど楽しい」。
その「しんどさ」の中で、私は「今を生きている」ことを感じる。

山を歩くときの静けさ。道を走るときの孤独。
その中でふと、自分の輪郭がはっきりと浮かび上がる瞬間がある。
過去や未来にとらわれず、「今ここにいる自分」だけが確かに感じられる。

だから私は今日も、山を登り、道を走る。
「限りある時間の中でどう生きるか」を確かめるように。

何かを乗り越えたあとの静けさにこそ、本当の自分が現れる。
そして、その声に耳を澄ませたとき、私はまた少しだけ変わっている。

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